はじめに読もうね!
浅野学園物理部の展示に来てくださり、そして、この記事を読んでくださりありがとうございます。
部誌っていうのは例年、その一年間部活動において何をしたか、どんなことをしたか、っていうの を書く場という雰囲気がありますが、特に規則があるわけではないし、普段物理部がやっていることは他の方々が十分というほど、紹介してくれているので扱うのは少しにします。
正直、部誌に中途半端に専門的なことを描くことを好みません。
理由は2つありまして…
一つ目に、専門的な知識を持った人から見ると退屈であること。
二つ目に、興味はあるが、あまり知識を持っていないという人が読んだときに何が書いてあるかは っきりとわからないことが多いということ(実体験)。
です。
要するに、自分と同じくらいのレベルの人からしか評価を受けないからです。
なので僕は、物理あるいはプログラミング、電子工作に興味がある人ない人、関係なく読んでもら いたいので、そういった知識が必要になることが少なくなるよう、持論を展開することにしました。そこで、昨年の文化祭から今までに僕がフラッと考察した「競争」することがどんな影響をもたらす かについてちょっとした考察を紹介させてください。
競争について競争ってイイコト?
そもそも、「競争」とはどういうことでしょうか。「競争」というのは、二つ以上の物や人が互い に優劣を争うこととされています(Wikipedia「競争」を参考)。
つまり、競争とは、必ず競う相手がいて成立するものとなっているので、そこには、団体戦であっ たら「それぞれの団体」だったり、完全に個人戦であったら「個人」というものが、おのずと確立されるようになるでしょう。
そして、競争することによってその相手達よりもより良くなろうとして自己の能力の向上を図るこ とができるのです。加えて、競争し終えた後に、その相手との仲が深まることもあり得ます。
というわけで、「競争」がどういった場面にあるかを紹介していきます。
競技プログラミング唯一の物理部関連
「競技プログラミング」とは、出された問題をなるべく早く正確に処理するプログラムをつくる、 という競技のことです(アルゴリズムについての記事がより詳しく説明しています。)。僕らは自宅で参加可能なコンテストに個人で参加しています。
ここ最近、物理部のPC班員の中で、僕を含めて3~4人くらいの人が競技プログラミングに手をつけていて、他の部員との勝ち負けや、知らない人を含めた全体の順位で競ったり、ゲーム感覚で新た な分野への技術的発展に努めています。
僕が参加しているコンテストはだいたい週に一回、土曜日もしくは日曜日の夜に開催されていて、 そのコンテストが終わった後は参加した物理部員によって、この問題までできただとか、こういうやり方のほうがいいだとか、どっちのほうが速かったとか、ほとんどわかっていたけどちょっとミスし ていた愚痴などのチャットで溢れかえります。
そして、次の部活動の際にできなかったところを先輩に質問したりすることで、交流が増えてにぎ やかな雰囲気になります。
こうして物理部内では、競争を頻繁に経験することで、お互いに切磋琢磨して、プログラミング技 術向上に向けて日々精進しております。
ライバルの存在物理部ネタ終了
こういったことはもちろん、競技プログラミングに限らず、私生活のあらゆる部分に当てはまりま す。
例えば、勉強面において「こんなやつよりはいい点取りたい」とか、「今回こそはこの友達より良 い順位とってやる」などといった目標や意気込みがあると、勉強もやる気が出てくるはずです。
その他の場面でも「こいつよりはいいことしたい」、「あの人と同じくらいできたら良いな」、「あの人のためにやってあげよう」のように、やるべき理由を見出すことができれば、やる気も多少 は出てくるでしょう。競技プログラミングでも、今日こそは買ってやるぞ、と思えば、やる気がみなぎってきます。
いい意味でも悪い意味でも、こういった「ライバル」を見つけると、自然と評価が変わってくるか もしれません。
資本主義いきなり国家レベル
最後に紹介したい競争の例が「資本主義」です。スケールが今までと違いすぎる気はしますが、言 いたいことは同じです。
2024年度上期からの新しい一万円札のデザインになる渋沢栄一*1は日本資本主義の父と称されるほど、西欧から日本に資本主義の考え方を普及させた人とされています。今では当たり前になっている資本主義、とは一体どんな考え方なのか説明します。
資本主義というのは国家の経済の体制の一つで、現在多くの国がこの体制を採用しています。特に 東西冷戦の終わったあとには殆どの国が資本主義を採用していました。その中でもアメリカは、冷静以前から資本主義国として最も有名な国です。
資本主義を構成する主な要素に、
何をどれだけ作って、いくらで売るか会社が自由に決められること(自由主義経済)
商品の売買に国家が介入することなく、市場*2に依存すること。
財産の私有が認められていること。
の三つがあります。このうち一つ目と二つ目が必然的に伴う「あること」によって経済が発展を遂げることになるのです。
それはもちろん、「競争」です。
資本主義経済のもとでは、誰もが会社を設立することができ、たくさんの商品やサービスを売って利益を追求することが可能です。しかし残念なことに、他の人もかんたんに会社を設立することができるので、そこにはライバルとなる会社が必ず存在します。
そうなると、それらの会社との価格や技術の競争に負けないように、どちらがより便利で、ニーズに合ったものを作れるかを日々考えなければなりません。その結果として、大きな技術の発展を迎えることができるのです。
注釈
- 「渋沢栄一」について:1830年~1931年。一代にして財閥を形成した、わが校設立者である浅野総一郎も彼の助けを得て大きく成長したとか…
- 「市場」について:シジョウ、と読む。イチバではない。「取引が行われている場所のすべて」のこととされる。例えば本の場合、本屋さんは市場の一部。それ以外にも、ネットショップやコンビニなど本が売られている場所をすべて含めると、市場になる。
さて、これで一応三つの「競争」の紹介は終わりました。ですが、もう少しこの記事は続きます。 資本主義の話に詳しい方や先のページが見えてしまった方はもう気づいているかもしれませんが、ここから先はもちろんアレでございます。
敗北と孤独共産趣味者はいないって?
競争にはいろんないいところがあるということを紹介してきましたが、そんないいところだけの話 なんてあるわけがありません。これからは競争に付きまとう問題点に焦点を当てます。その問題は、競争の基本的な考え方にある「個人」の確立、そしてもう一つは、「敗北」です。
しかし、これらを克服すれば、必ずや充実した生活が訪れるでしょう。
まずは「個人」について。
競争をすると相手との交流も深まる可能性がある一方、小数ではあるかもしれませんが、やはり、他の人と仲良くしたいが、うまく馴染めない人も必ず出てくるはずです。その人たちが感じることは決して「友情」なんかではなく、「孤独」でしょう。
「孤独」を克服する方法については僕も時々考えることはあるのですが、やはり、解決が簡単ではないなとは思います。
僕が考えついた方法の一つは、なるべく多くの集団への所属を経験することで、他人と触れ合う機会を増やして、交流を深めることが良いのではないでしょうか。世の中には優しい人がたくさんいますから、そういう人に会えれば、孤独は解消されるはずです そしてもう一つは、他人の中で孤独な人を見つけることです。自分と同じような境遇に置かれているということは、その人もおそらく同じ気持ちでしょうから、その人と絡むことでお互いに孤独が解消されていい感じになるのかなと思いました。
ちなみに自ら一人でいることを選択すること(寂しさを伴わない「一人」)は全く問題ないと自分で思います。
あと、僕は15年間、こういった孤独に悩んだことがない(自慢なのか?)ので解決方法に関してはこういった見方もあるのかな、程度にしていただけると嬉しいです。
そして「敗北」について。
やはり、競争において、成功する者もいれば失敗する者もいます。そして、それが続いてしまう場合もあるでしょう。
資本主義社会においてはいわゆる「貧富の差」です。少数の裕福な人々のためにたくさんの人がお金に困ることになります。
これを無くすべく出来上がったのが「共産主義」という資本主義と対立する、
お金持ちの存在を許さない!
私有財産をなくし、財産(土地やモノなど)を全て共有して、上下関係なく、みんな平等に必要な分だけ作って生きよう。
という「競争」とは全く違う「協力」という理想を目指した考え方です。
かつてこれを大々的に目指したソビエト社会主義共和国連邦という大国がありましたね。計画経済と言われる自由主義経済とは真逆の、誰が、何を、いくつ作るかを国家の方であらかじめ設定するスタイルで、一時はアメリカと世界の1、2をあらそうまでの国になりました。しかし、工業に力を入れすぎたり、チェルノブイリ原発事故があったり、途中から経済のシステムを変えたりなど、いろいろあって結局資本主義の方が良いということになりました。
しかしこの共産主義、金持ちを許さない、という目の付け所は良かったのですよ。今の日本でもこれと少し似た現象が起きています。金持ちから多くお金を取って貧しい人々に分ける、聞いたことありませんか。そう、所得税などの税金と社会保障制度の関係に似ていませんかね?
経済で生じた欠陥を政治で補ってあげる。そういう点で見ると、資本主義+民主主義というのはなかなか良い選択だったのかもしれません。
勉強などにおいては教育というものもそれに似たことなのではないかと思います。先生から生徒へ、先輩から後輩へ、技術や学問を伝え、向上させてなるべく均一になるようにする。
頭がいい人が偉い、お金持ちが偉いからそれに従えとかいう、弱肉強食の世界ではなく、僕はこういうことならわかるから、これを教えてあげるよ、などいった共存共栄の社会になってほしいですね。
終わりに終わり悪ければ・・・?
僕は今年で部誌を書くのが二回目で、去年よりはいいこと書いたかなと思うのですが、文章を書く能力がだいぶ追いつかないというのが感想の主なところです。
この持論については少しだけネットの記事を参考にしたところもありますが、大半は、僕が登下校中に歩きながら興味本位に考えたことばかりなので、鵜呑みにするのは危険です。読みにくかったかもしれませんが、これを読んで何か自分の中で変わったことがあれば、僕はそれを嬉しく思います。
では来年に向けてネタを探すことにします。
参考文献などアルティメットサンクス!
いらすとやから、競技プログラミングの画像と、新一万円札の画像と、村八分の画像