とあるペルシャ人の手記

匿名

貴重な機会なので,今まで生きてきて考えてきたことの一部を記録しておこうと思う。
何かに役立ててほしい。

才能と努力のはなし

知っての通り,世の中には「才能」と「努力」と呼ばれるものがあり,対照的に扱われている。
そして,これらはどちらが優れているのか。
これについて話そうと思う。

議論を始める前に,まずは言葉の定義を明確にしておこう。
これは書物なので,ここでは私の定義を用いるが,
あなたはそれとは違う定義を考えるならば,興味深いのでぜひ私に教えてほしい。

私は,「才能」は無意識の,「努力」は意識的なものであると考える。
例外は存在しうるが,殆どの場合当てはまるのではないだろうか。

例えば,理学が好きだと言う生徒は多くいる。
そしてその中には稀に,卓越した技能を持つ者がいるのだが,大抵の場合,そうした者たちは小さなころからそれが好きだ。

勿論,年を重ねるほど,嫉妬や羨望などの不純物が生まれ感情の純粋さが減っていくから,というのもある。
理学が一番好きなのか,一番ではないけど好きなのか,それとも成績や受験のための道具なのか。

理学が好きで,それに明るいものは物心のつかぬころから周りに興味を持ち,体全体でそれらを感じ,探求する。
これは誰かの意思ではなく,無意識にそれを行っている。

一方でそうでない人は物心がつき,学校に入ってから授業で教科書を読んでそれを知り,努力して習得する。
ここで好きになった者の感情については上に述べた通りだ。

この2つの違いは何か。
それは,かけてきた時間である。
努力をするものが意識して行うことを,才能ある者は当然のこととして,常に実行している。
それゆえに費やす時間が非常に長い。
その時間の長さは無意識の行動の注目すべき特徴であり,これが能力的な差に大きな影響を与える。
また,無意識の感覚でしか知覚できないものもある。

才能は努力に勝る。この言葉は正しい。

同じ土俵の上ならば。

費やした時間と感情の純度が違う以上,無意識の行動に意識した行動が勝つ可能性は低い。
それは確かだ。

しかし,無意識であるゆえに,その方向は自分で決められない。
対して意識した行動は,種類や質を変えることができる。

日本刀は横から叩けば容易に折れるように,彼らの鋭い自己主張も,方向が違えば意味を成さない。
少し野蛮な表現を使えば,彼らの背後に立ち,不純物を染み込ませた刃を首元に突き立てることができるのだ。

この問題に限らず,意識は非常に大切である。
意識をすることで,自分の世界を変えることができ,好きなようにカスタマイズできる。
上で話したことも,「努力は才能に劣らない」ということを,意識していなければ意味がない。
これは反証できない,非科学的なものだが,心の片隅に留めておいてほしい。

創作と模倣のはなし

手本や正解があるものを模倣,無いものを創作というのであれば,あらゆる行動はこれらの比率によって分類できるだろう。

そして,意外に思うかもしれないが,創作だけのものはない。
絵描きや物書きなどでさえ,模倣と創作の両方の要素を持っていると言えるだろう。
今まで見てきた他人の作品は勿論,自分の過去の作品や,経験した記憶なども作品に影響を与える。
今話している内容や,前の節の内容も,実は誰かの言葉に私の言葉を混ぜたものかもしれない。

そして,創作的な部分には,人の魂は宿ると,私は考える。
創作には人の精神が深く関わっているからだ。
模倣だけでは100年程度しか生きられないが,自身の精神を込めた創作物があれば,
例え肉体が朽ちようとも,忘れられない限り生きていられる。

今まで学校の中で生きてきた身としては,模倣だけの人間はつまらない。
辞書や計算機が歩いているだけのような人間は掃いて捨てるほどいるし,それらにも満たないような肉塊も多い。
彼らが全員美しい人形に変わればどんなにいいだろうか。

これを呼んでいるあなたは,努力してそうならないようにしてほしい。

おわりに

いつかあなたが魅力的な人間となって,私の前に現れてほしい。
ここまで読んでくれたことを感謝する。

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