はじめに
「学校」という組織の中で「生徒」として生活している僕達は、しばしば教師について考えさせられる。そこで、「教育」について考えてみることにした。
教育者
未熟である被教育者(子ども)は、自身がどのような価値観を持ちたいかを自身で選ぶことができない。そのため、教育者は、「何が正しいか」「どう生きるべきか」「何を学ぶべきか」といった価値観の注入、つまり自身の「倫理」を「道徳」として被教育者に与えることを、被教育者の望みとは無関係に行う(これは避けられない「介入」であり、ある種の暴力性を含む行為である)。しかし同時に、教育者はこう言う。「“先生が言ったから”ではなく“自分で望んだから”を理由に動きなさい。」このように、教育者は、被教育者に自身の価値観を植え付けながら、被教育者に自身の価値観から独立させるという矛盾する営為を行う。
また、教育者による、被教育者を導くための「介入」が「成功する」というのは「被教育者が教育者の影響から自由になること」を意味する。つまり、教育者というのは、被教育者の自立のために自身の価値観を植え付け、最終的にはその価値観を被教育者に乗り越えさせ、自身の影響力によって自身の影響力を無効化する存在なのである。
端的にまとめて言うと、教育とは、一方的な管理をしながら、主体性を育てるという暴力的かつ根源的に矛盾した営為であり、その矛盾の果てに、教育者は自らを不要にする「自己消去」を宿命づけられている。
果たしてこの矛盾や暴力性は悪なのか?自己消去は悲劇なのか?
矛盾
この矛盾を「悪」だとした瞬間、「教育」というのは「洗脳」に変わる。矛盾はシステムが機能している証拠であり、「悪」ではなく「ダイナミズムの源泉」なのだ。
暴力性
大人が子どもに何かを教えるとき、「暴力(非対称な力)」をゼロにすることはできない。言葉を教えること自体、ある言語体系の枠組みを子どもに強制する行為なのである。もしこの暴力性を「完全な悪」と断罪してしまえば、大人は子どもに一切触れられず、何も教えられなくなり、それは教育の放棄となる。つまり、教育の暴力性は「支配」ではなく「導き」ではなければならない。
自己消去
人間のエゴから見れば、これは紛れもない「悲劇」だ。自身が手塩にかけて育てた存在に、いつか拒絶され、忘れ去られていく。これほど残酷で寂しい結末はない。しかし、被教育者を教育者自身の所有欲・承認欲求を満たすための存在ではないと認識したとき、その「悲劇」は「倫理」へと変わる。被教育者を教育者の所有物にせず、一人の独立した「他者」として世界へ放り出す。そのためには、教育者自身が退場しなければならない。これは他者の尊厳を守るための、最も厳格で倫理的な自己規律だ。そして、この「悲劇」と「倫理」を踏み越えた先で、「私が忘れ去られることによって、君が私の屍を越えて輝くなら、それでいい。いや、それこそが私の至上の救いだ」と狂気的に微笑む境地に達するとき、それを「愛」と呼ぶ。それは、自らの消滅を代償にして他者の未来を誕生させるキリストの自己犠牲に似た、実存的な情熱の極点だ。このように、自己消去というのは、悲劇を内包した、倫理の極致としての、狂気的な愛なのである。
まとめ
教育に限った話ではない。人間が他者と関わるとはどういうことか。親子、師弟、恋人、友人など、あらゆる関係は、「相手に影響を与えながら相手を自由にしようとする」という矛盾を抱えていおり、「言葉を使うこと」「文化を伝えること」「価値観を共有すること」も、どれも暴力性を持っているものである。つまり、「他者に触れる」とは、相手の可能性を奪う危険を孕む行為なのである。だからこそ、暴力性は「悪」ではなく、「他者と関わるための倫理的リスク」として引き受けなければならない。分かりやすい例で言えば、「親は子に忘れられる」「師は弟子に乗り越えられる」などだろう。つまり、自己消去は「宿命」ではなく「愛の構造」そのものであり、「愛」とは、自己の消滅と代償にして他者の未来を誕生させる行為なのである。他者を愛するとは、その人を己の影響から自由にし、己を不要にし、最後には忘れ去られることを受け入れることである。そして、それは悲劇、倫理、愛、狂気すべてを含む。
ここで挙げた「教育」とは、他者と関わるという人間存在の本質を極限まで露呈させる営為であり、その本質とは、矛盾・暴力・自己消去・愛が渾然一体となった、美しく残酷な他者関係の大きなモデルであるのだ。
おわりに
思考を重ねるうちに、「人間が他者と関わるということ自体が、矛盾・暴力・自己消去・愛を含む営為である」という普遍的な真理に繋がっていった。そして、僕の考え方が少しレベルアップしたような気がした。
最後まで読んでくれたみんなに、ありがとう!